仏教とは、苦しみからの解放を目指し、その方法を説いた教えです。
今から2500年ほど前、インドで生まれました。
開祖は「ゴータマ・シッダールタ」。
日本では「釈迦(しゃか)」「お釈迦さま」と呼ばれ、皆から慕われています。
👉ポイント
現在の日本の仏教は『大乗仏教』と呼ばれ、各宗派、本来の仏教とは少し違う形の教えに仕上がっています。本尊さまや教え自体も多岐に渡っております。
しかし、毎年4月8日の『花まつり』には、仏教の開祖であるお釈迦さまの誕生日を各寺院でお祝いしております。
◆四門出遊(しもんしゅつゆう)
シャカ族の王子として生まれたシッダールタは、お城で何不自由なく、贅沢で快適な暮らしを過ごしていました。
ある時、縁あってお城の東西南北、四つの門から城外へ出る機会に恵まれます。
まず、東の門から外へ出たとき、シッダールタは、よぼよぼの老人を目撃します。いままで、老人を見たことがなかったシッダールタは、たいへん驚きます。
「どんな人間も、歳を取れば、いずれあのように老いてしまうのか!」
次に、南の門から外へ出たとき、シッダールタは、やせ細った病人を目撃します。病人を見たことのなかったシッダールタは、老人を見たときと同じように驚きました。
「どんなに健康な人間でも、あのように病気になり、動けなくなる可能性を持っているのか!」
次に、西の門から外へ出たとき、シッダールタは、葬儀の列に出会います。横たわる死人を見てシッダールタはまたまた衝撃を受けます。
「どんな人間であれ、いずれはあのように動かなくなって死んでしまうのか…!」
シッダールタは人間の現実と言うものに触れ、恐怖と不安に苦悩します。
「人間は、今は若く健康であっても、いずれは老いて病気になり死んでしまうのだ…なんと残酷で怖ろしいことなのだろう…」
そして最後に、北の門から外へ出たとき、シッダールタは、修行僧に出会います。修行僧を見たシッダールタはその清浄で泰然、苦しみも不安も感じさせないその姿に感銘を受けました。
「この苦しみと不安のあふれる世界で、なんと堂々とした姿をしているのだろう。この方のお顔からは、何の不安も苦しみも感じさせない!素晴らしい!」
こうしてシッダールタは出家を決意しました。
👉ポイント
・なぜ人間はいずれ老いてしまうのか?
・なぜ人間は病気になってしまうのか?
・なぜ人間はいずれ死ぬのか?
・修行者はなぜ不安や苦しみを感じさせないのか?
四門出遊はあくまでもブッダになる前のシッダールタの悟り(疑問)です。
成道後の教えと混同してはいけません。
◆成道(じょうどう)
シッダールタは29歳で出家し、6年間さまざまな修行を行いましたが、納得のいく答えを得ることは出来ませんでした。
35歳になったシッダールタは、「悟りを開くまではここから動かない」と一大決心をして、菩提樹の下に坐り、12月8日の明け方、みごと大悟見性し、ブッダ(覚者)となりました。
お釈迦さまが12月1日より12月8日までの間、昼夜を通して坐っていたことに習い、禅宗の僧堂ではこの期間を「臘八大接心(ろうはつおおせっしん)」と呼び、とてもすごい修行期間としています。
👉ポイント
道が成るということで、ここから『仏道』は始まります。
勘違いしやすいですが、仏道と道徳は違いますし、仏道と武士道も違います。
ブッダとなったお釈迦さまの悟りを紹介します。
◆縁起(えんぎ)
衆生は縁によって起こる。
◆諸行無常(しょぎょうむじょう)
諸行は無常である。
◆諸法無我(しょほうむが)
諸法は無我である。
◆涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)
涅槃は寂静である。
◆一切行苦(いっさいぎょうく)
一切の行は苦である。
◆四苦八苦(しくはっく)
苦しみの種類。
生老病死の四苦に他4つを足し八苦。
●生苦(しょうく)
生まれる苦しみ。
●老苦(ろうく)
老いの苦しみ。
●病苦(びょうく)
病の苦しみ。
●死苦(しく)
死の苦しみ。
●愛別離苦(あいべつりく)
別れる苦しみ。
●怨憎会苦(おんぞうえく)
嫌なモノに出会う苦しみ。
●求不得苦(ぐふとっく)
手に入らない苦しみ。
●五蘊盛苦(ごうんじょうく)
感覚、反射、生命活動、全て苦しみ。
👉ポイント
なんの説明もされていないように思われるかもしれませんが、この説明で十全です。『諸行無常』『諸法無我』このまま、この4文字こそで素晴らしい。
お釈迦さまは矛盾のない完ぺきな教えを説いていますが、シンプルすぎて逆に真意をつかむのが大変になっております。
◆七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)
お釈迦さまと、お釈迦さま以前の仏さま6人(計7人の仏さま)が説いた教え。
諸悪莫作 衆善奉行
自浄其意 是諸仏教
しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう
じじょうごい ぜしょぶっきょう
もろもろの悪をなさず、もろもろの善を行いなさい。そうすれば心は自然に清らかになります。これが仏たちの教えです。
👉ポイント
諸法無我。仏教には分別(ふんべつ)の概念はありません。
よって、ここでいう『善悪』とは、倫理観からの善悪ではないのです。
では『仏教でいう善悪』とは何のことでしょうか?
ヒントは☟
◆輪廻転生(りんねてんしょう)
「死」の次の「生」。
◆六道(ろくどう)
積み重ねた「業」によって決まる道。
●天道(てんどう)
天。人よりも優れたもの。
●人間道(にんげんどう)
人間。人。
●修羅道(しゅらどう)
修羅。貪り、怒りなど、我欲が人より強いもの。
●畜生道(ちくしょうどう)
畜生。怠惰、不精、本能に忠実なもの。
●餓鬼道(がきどう)
餓鬼。渇望、執着、未練、後悔にとらわれたもの。
●地獄道(じごくどう)
亡者。必要もなく「戒」を破り続けたもの。
「天道」「人間道」「修羅道」の3つを三善道、「畜生道」「餓鬼道」「地獄道」の3つを三悪道と呼びます。いずれも欲界(この世)の中に存在しますが、「天道」→「人間道」→「修羅道」→「畜生道」→「餓鬼道」→「地獄道」の順番で、住んでいる方の苦しみはどんどん上がっていきます。
また、成仏して仏になることが出来るのは、「人間道」に住む者たちだけ、とされています。
※関連法話>>『塩と器の話』
※関連法話>>『長い匙の話』
👉ポイント
諸行無常。衆生は常に生老病死を行い、輪廻転生を繰り返します。怠けていれば畜生道に落ちるし、未練があれば餓鬼道に落ちるでしょう。戒を破り続ければ地獄行きです。輪廻の輪から抜け出すには『成仏』するしかありません。では仏とは何でしょう?
仏とは一切衆生のこと。仏とは苦しみから離れた(離れている)もののことです。
◎浄土(じょうど)
清浄で淀みのない、仏さまの世界。
仏さまは皆、各々に浄土を持ち、そこに住むことになります。また、他仏の浄土に行き来することも、娑婆に帰ってくることも、可能です。
有名なところでは、阿弥陀如来の「西方極楽浄土」、薬師如来の「東方浄瑠璃浄土」、弥勒菩薩の「兜率天(とそつてん)」などがあります。
また、浄土は修行の場としても理想的とされ、「浄土にて修行をすれば、悟りやすくなり、涅槃にも至れる」といわれています。
※関連法話>>『お経の話』
👉ポイント
浄土は大乗仏教で主とされる教えといわれています。「浄土で修行せよ」ということで、各寺院の僧侶は立派な荘厳(しょうごん:本堂の飾り付け)を心がけ、清浄なお庭(枯山水など)を用意し、美しい袈裟(金襴や紫衣など)を着けて、仏さまのお言葉(お経、法話・念仏)を読み、仏さまの浄土を顕現します。儀式の作法が細かく定められているのも同じ理由です。すべては浄土を形作り、少しでもみんな(衆生)に浄土を体験してもらおう、仏さまの世界で修行していただこうと、やさしい慈悲の心からきているのです。これが大乗仏教の浄土の教えなのです。※最近では上座部仏教もわりと金ぴかなような気もしますが、それは触れないでおきましょう(良いことなので)。
◆五戒(ごかい)
仏教徒が守るべき五つの戒。
不殺生戒(ふせっしょうかい)
殺さない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)
盗まない。
不邪婬戒(ふじゃいんかい)
煩悩にとらわれない。
不妄語戒(ふもうごかい)
欺(あざむ)かない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい)
酔わない。
※関連法話>>『不飲酒戒の話』
👉ポイント
戒を破り続けると地獄に落ちます。
「全ては空で何をやってもいいんだ!」「この世界は自由だ!」「俺はひとりだ!」という勘違いをして、初期の仏教者は無茶苦茶やっていたのかもしれません。そういう虚無主義的な思考を、禅宗では『野狐禅』『狐の穴に落ちる』とよんでいます。
◆八正道(はっしょうどう)
涅槃に至るための8つの正しい行い。
正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。
正しい行いとはすなわち、仏の教えを守り、三悪道に落ち入らないよう(怠惰にせず、不精にせず、本能に忠実にせず、渇望せず、執着せず、未練なく、後悔にとらわれず、戒を破らず)、常に一生懸命ベストを尽くすことです。
👉ポイント
正しい道とは何でしょう? 常に最善だと思う行動(一生懸命)を行えば、そこに後悔はなく、未練はない。もちろん怠惰にもならない。あとは戒さえ守っていれば、その間は三善道に居れるでしょう。八正道を禅宗で考えると『即今当処』『歩歩是道場』『諸悪莫作、衆善奉行』など、さまざまな語となります。
お釈迦さまの教えに最も近いとされる初期仏教の教えは、とてもシンプルで怖ろしいほどの正確さを持ってこの世界の真理を語っています。しかし、シンプルで正確すぎる故に、凡夫には非情に解りづらく、その教えの真意を正しく理解しようとするには、天地をひっくり返し、今の自分を吹き飛ばすほどの精進と智慧が必要となります。
そのシンプルで正しすぎるがゆえに、超ド級の高難易度になってしまっている初期仏教を『なんとか解りやすく、身につけやすいものにして、苦しんでいる衆生にも広めたい、救いたい』という思い、やさしい心、慈悲の心によって各宗派の祖師方が整えたものが、今の日本の仏教である大乗仏教となります。
例えば、お釈迦さまの言った、諸法無我。
諸法無我はこの4文字で完ぺき完全な教えなのですが、普通の人間が聞いても「諸法ってなに?」「無我ってなんのこと?」と、ちんぷんかんぷんで混乱してしまうことでしょう。この諸法無我の4文字を、わざわざ276文字に増やし、解りやすくなるだろうと創意工夫して古人が作り上げたものが般若心経となります。諸法無我の4文字(すばらしい!完ぺきな4文字!)よりも、般若心経の方が(完ぺき完全な教えではないですが)多少は、多少は解りやすくなっていると思います。
般若心経やその他の大乗仏教のお経は、お釈迦さまの直伝の教えではないので、仏教学界では偽経と呼ばれています。悪く言う学者先生もいるようです。しかし『人の為と書いていつわりと読む』のです。多くの衆生を救おうとする大乗仏教が、人の為を思って、人の為のお経を作って何が悪いのか、と私は思います。
今回、このページで、お釈迦さまの教えの解説を書いていて、お釈迦さまの教え自体はぐうの音もでないほど完ぺきであるが、どう考えても伝わりにくいと気づかせていただきました。そのことで逆に、禅宗含め、日本の大乗仏教諸宗派の教えのすばらしさ、やさしさを改めて感じさせていただきました。私も仏教、仏法をできるだけ皆に解りやすく伝えていけるよう、精進したいと思います。