盤珪(ばんけい)禅師の弟子に廬山(ろざん)という方がいました。
廬山はとても節約家で、灯明の油皿を拭くのにも反故紙を使っていました。
※反故紙→書き損なうなど不要になった紙
それを見た盤珪禅師は「どうして白紙を用いないのだ」と、廬山の吝嗇(りんしょく)に過ぎるのを戒めました。
※吝嗇→ドケチのこと。
盤珪禅師は常々、
「無駄に使うのは奢りだが、惜しむのは貪(むさぼ)りである」と、弟子に教えていました。
廬山は、師の言いつけを守り、油皿を拭くのに白紙を用いるようにしたそうです。
盤珪禅師は普段は一枚の紙や、わずかなお金さえも、無駄にせず大切に使っていました。
しかし、もったいない、もったいない、と節約にすぎるのも上手くないと考えていたのでしょう。
「もったいない」という「物」を最大限に生かそうとする精神は素晴らしいことだと思います。しかし、これが行きすぎると、
こだわりになり、
執着になり、
貪りになってしまいます。
貪りは人間を苦しませる三毒の一つです。
この紙はまだ何かに使えるのではないか?
メモ紙として使えるのでは?
汚れを拭くのに使えるのではないか?
お菓子を乗せるのに使えるかも?
もったいない、まだ使える…
まだ使える…
もったいない精神は素晴らしいことです。
工夫することも素晴らしいことです。
しかし、それにこだわりすぎて「貪りの暗黒精神面」に落ちてしまわないよう、気をつけましょう。
「無駄に使うのは奢りだが、惜しむのは貪りである」
何事もほどほどが一番です。
参考文献
禅文化研究所 (1992/10)
禅文化研究所(編)
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