ある檀家さんにこういう質問をされました。
「般若心経(はんにゃしんぎょう)とは、どのようなお経なのですか? わかりやすく簡単に教えてください」
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般若心経とはもっとも有名なお経の一つです。
私も毎日読んでいます。
なじみ深いお経ではありますが、その意味を詳しく理解している方は多くないと思います。
「色(しき)は空(くう)であり、空は色である。諸法は空であり、とどのつまり空とは無である。この叡智を体現すれば苦しみは消え、幸せになれる」
簡単に説明すると般若心経とはこういうことを説いたお経でありますが、一般の方はこの説明だけでは意味も分からずチンプンカンプンでしょう。『色』とか『空』とか『無』とか、難しそうな言葉が容赦なく立ちはだかります。
——そういうことで、今回はなるべく専門用語を使わずに、般若心経を解説できればと思います。
♢♢♢
ある仏教学者のもとに青年がやって来て質問しました。
「先生、私の家の隣のおじいさんは毎日朝晩と般若心経を唱えていたのですが、先日、車の当て逃げにあって足を骨折してしまいました。般若心経をこれほど一生懸命に唱えていたのに、こんなことが起こるのでしょうか? 般若心経にはなんの効果もないのでしょうか?」
それを聞いた学者は答えました。
「そのおじいさんは般若心経を読んでいたから、その程度のケガで済んだのです。もし般若心経を毎日読んでいなければ死んでいたでしょう」
「なるほど」
…
……
………
帰り道、青年は思いました。
「――どうにも納得できない。
もし、おじいさんが死んでいたら、先生は『般若心経のおかげで、おじいさんは苦しまずに死ぬことが出来たのだ!』と言っただけなのではないだろうか? 般若心経とはこの程度のお経なのだろうか…」
納得のいかなかった青年は、その足のまま、近くのお寺に向かうことにしました。
「和尚さん、私の家の隣のおじいさんは毎日朝晩と般若心経を唱えていたのですが、先日、車の当て逃げにあって足を骨折してしまいました。般若心経をこれほど一生懸命に唱えていたのに、こんなことが起こるのでしょうか? 般若心経にはなんの効果もないのでしょうか?」
それを聞いた和尚さんは、足を抑えながら言いました。
「いたたたた…」
♢♢♢
青年は和尚さんの解答を理解できたでしょうか?
青年の問いに和尚さんは「足を骨折したので痛い」という表現で答えました。
『足を骨折したので痛い!』これだけです。
そこには「当て逃げされた悔しい! 腹が立つ! ゆるせない!」といった後の感情はありません。
ただありのまま、「足が骨折した。痛いなあー」という事実だけがあるのです。
「骨折した。痛い」ということ(因果)以外の感情はすべて『空』であり『我(が)』なのです。
「ゆるせない! 恨めしい! 不幸だ! 悲しい!」これらの感情は全て自分の『我』が作り出したものであり、苦しみを増幅させるだけのものなのです。
仏教は苦しみから離れなければなりません。
これは『矢の話』で説いた『第二の矢を受けてはならない』という教えにもつながります。(参考:矢の話)
和尚さんのように『空』を理解し、「いたたたた…(まあ、こういうこともあるか…)」と、二の矢である『我』を受けないように注意しなければなりません。
「自分の『我』というものなど本来ないのだから、ありのまま起こったことを受け入れ、受け止めなさい。『空』に振り回されないように、『我』に振り回されないように、そうすれば苦しみも生まれません」というのが般若心経の教えになるのです。
□□補足□□
無我の説明補足。
般若心経は第2パートで「『空』は『無』である」と説かれます。さんざん説明してきた『空』がけっきょく無いの? どういうこと? と疑問に思われるかもしれませんが、それは仕方のないことです。
諸法無我(しょほうむが)、本来この世界に我は無なのです。
『我』という『人間のものさし』は、人間(自分)自身の経験や体験によって勝手に作られた妄想です。この妄想によって我々は迷わされ苦しめられます。(参考:5歳の話)
そして真実の世界である仏様の世界には『空』も『我』もありません(注1)。メモリが何もない『仏様のものさし』が使われているからです。(参考:性〇説の話)
真実の世界は仏道の先にある仏様の世界・・・しかし悔しいかな我々は欲界に住み、人間道をさ迷い続ける人間なのです(注2)。
人間なので『空』や『我』にどうしても振り回されてしまうということです。
少しでも仏様の世界に近づけるよう、精進したいものです。
※注1:『ありません』と書いていますが、厳密にいうと『無』とは『虚無』のことではありません。『無』とは限りなく『虚無』に近い『有』、いや『無』です。(数字で例えるなら0.0000000∞)
※注2:天、修羅、畜生、餓鬼、地獄道の可能性もあります
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