臨済宗の要として公案(こうあん)というものがあります。
公案とは分かり易く説明すると、禅の問題(禅問答)のことです。
雲水(修行僧)は老師と呼ばれる指導者から、公案を与えられ、それを解いていくことによって悟りを目指します。
公案は『過去の禅僧の悟り体験を示したもの』や、『白隠慧鶴(はくいんえかく)によって創られた独自の公案』などがあります。
今回は公案について教えてほしいと言われたので、簡単にではありますが解説させていただきます。
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『法話:性○説の話』、『法話:五歳の話』で人間は成長するほどに、「思考の殻」につつまれて、自分という「我」に捕らわれていくと説明しました。
我々人間というのは、生きて成長していくことで、経験や学習を重ね個人としての自我が育っていきます。
しかし、一休さんの、
おさな子が しだいしだいに知恵づきて
仏に遠く なるぞ悲しき
という詩にあるように、
自分という「我」「思考の殻」が育てば育つほど、我々の目指す「仏」という存在からは遠ざかっていきます。
経験や自我によって作られる妄想は苦しみを生みます『法話:妄想の話』。
常識や思い込みに捕らわれると苦しみを生みます『法話:柔軟心』。
また、仏教を学ぶ、仏道を歩むという点でも自我というのは邪魔な存在になります。
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じつは仏教の教えは難しくありません。
お釈迦様は明確かつ簡潔に、私たちに真理を教えてくれています。
しかし、受け取る側である私たち人間に「妄想や思い込み、我、思考の殻(培ってきた常識、経験など)があるため」に、その教えを素直に受け入れることが出来なくなっているのです。
ありのまま受け取ればそこに答えがあるのに、です。
例えば、『法話:松の話』。
この話では村人は妄想や執着(我や思い込み)に捕らわれ、曲がった松をまっすぐに見ることができません。
人間はどうしても、妄想を込めて解釈してしまうという教えにもなっています。
妄想を込めて仏教を解釈してしまう。
思い込みで教えを曲解してしまう。
自分で勝手に難しく難解に変えてしまう。
曲解に曲解を重ね、ひどい時には「この教えは間違っている!」など言い出すこともある。
しかし、これは仕方ないことなのです。
なぜなら我々は人間だからです。
培ってきた経験もある。学んできた常識もある。育ててきた我もある。妄想もする、思い込みもする。欲望はとても気持ちいい。この妄想と執着にまみれた思考の殻はとても固く、それに反する仏教の教えは、中に入り込めないのです。
「仏教の教え?真理?無理無理、受け入れられないね!」と、無意識にシャットアウトされるのです。
人間が『我』や『思考の殻』を持ったまま、仏教の教え、その最たるところの真理・悟りを得るにはかなりハードルが高くなるのです。
そこで、「我や思考の殻を打ち破ろう!」と用意されたのが、公案になります。
まずは育ってきた我を打ち消す、
まずは培ってきた思考の殻を打ち破る、
まずは常識や思い込みから解放する、
その足掛かりとなるのが公案なのです。
公案は「よく分からない問題の代名詞」として使われる『禅問答』そのものです。問題だけ聞いてもふつうはちんぷんかんぷんです。
それでも『我』を打ち破るために、雲水(修行僧)は日夜『公案』に挑み続けるのです。
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白隠禅師の作った有名な公案に隻手音声(せきしゅおんじょう)があります。
両掌相打てば 声有り
りょうしょうあいうてば こえあり
隻手 何の音声か有る
せきしゅ なんのおんじょうかある
「両手を叩けば音が鳴る、では片手にはどんな音があるか?」
『法話:松の話』で気づいたかもしれませんが、公案は自分で考えて考えて考え抜いて、自分で解かなければ意味がありません。
よって答えは教えません。
しかし、人間という『我』に捕らわれているうちは、この隻手音声の真の意味にはたどり着けないでしょう。
ありのまま問題を受け入れて。
ありのまま隻手の音と向かい合う。
自らの妄想・執着・思い込みから離れ、隻手の音を率直に受け止めることが出来れば、『自我』『思考の殻』を打ち破って、悟りに近づくことが出来るでしょう。
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公案というのは、自分という我や、育ってきた思考の殻、それらを打ち破るためのものになります。
おさな子が しだいしだいに知恵づきて
仏に遠く なるぞ悲しき
我々人間は、成長するにつれ、背負う苦しみがどんどん増えていきます。
日本の大乗仏教の教えは、皆さんに少しでもその荷物を減らして欲しいという考えからきています。
今回、説明はしましたが、皆さんが公案に取り組む必要はまったくありません。
そんなものは僧侶に任せておけば大丈夫です。
僧侶が修行をがんばって、檀家さんはその教えを受け取るだけで良いのです。
各お寺の住職さまのお話や法話を聞いて、皆さんが心を軽く、少しでも楽になっていただけたらな、と思います。