「お経の話①」の法話で、お経を読むときに大切なことは、
一つに「一生懸命に読むこと」
一つに「無心で読むこと」
であると説明させていただきました。
無常迅速、諸行無常のこの世の中で、手を抜いてお経を読んでいる暇などありません。
一回一回、一文字一文字を、一生懸命大切に読みましょう。
また、一心に、無心にお経を読むことも大切です。
何も考えずお経を読む。
自分を忘れ、娑婆を忘れ、お経文と一つになれば、そこは浄土に変わるのです。
◇
時宗の開祖である一遍(いっぺん)上人(しょうにん)は念仏を広めるため、日本全国を巡り続け、その生涯でお寺に定住することはなく、民衆のためにと念仏を唱え続けました。
その一遍上人があるとき、法燈国師という禅宗の和尚さんに参禅(禅について問答すること)をしたことがあったそうです。
このとき、一遍上人は次のような歌を作って、法燈国師に差し出しました。
となふれば 仏もわれも なかりけり
南無阿弥陀仏の 声ばかりして
法燈国師はこの歌に対して「未徹在(みてつざい)(まだまだ禅の境地を徹底していない!)」と評しました。
そこで、一遍上人は改めて次のような歌を提示します。
となふれば 仏もわれも なかりけり
南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ
法燈国師は「よし」と、この歌を認め、一遍に印可のしるし(修了証書)を与えたそうです。
「南無阿弥陀仏の 声ばかりして」が「南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」になっただけですが、この違いは決定的なものとなります。
「南無阿弥陀仏の 声ばかりして」では、まだそこに、声を聞いている自分、『われ』が残っているのです。
声を聞いているということは「まだまだ『われ』と念仏が一つになっていない」ということです。
しかし、「南無阿弥陀仏 なむあみだぶつ」では。『われ』というものが完全になくなっています。
100%南無阿弥陀仏です。
念仏と自分が完全に一つになっている一遍上人のこの境地を、法燈国師はお認めになられたのです。
◇
この一つになるという境地は、なにも念仏にだけ限ったことではありません。
お経でも同じです。
般若心経を読むときは般若心経と一つになる。
観音経を読むときは観音経と一つになる。
自分という『われ』から離れ、お経と一つになり、お浄土にたどり着く――
我々はその境地を目指さなければならないのです。
参考文献
仏教とっておきの話366 夏の巻
新潮文庫 (1995/6/1)
ひろさちや(著)
★おすすめ!